一直線女子の映画向上会

国内や海外を問わず映画界の問題点や向上改善に迫っていく次世代型映画ブログ

主演三島由紀夫とスタープロダクション映画の成功者と傷つきながら模索した先人たち

 

映画を極めろ一直線女子 歴代股旅スタートップ2と映画400作名俳優ぷらす萩原健一 知られざる数字たちを公開いたしました。

 

 

 

 4代目澤村國太郎 市川右太衛門 嵐寛寿郎 林長二郎 阪東妻三郎 大河内傳次郎 時代劇六大スター 七剣聖 月形龍之介 歌う映画スター 高峰三枝子 美空ひばり 石原裕次郎 小林旭 高田浩吉 マキノプロダクション 浪人街 第三話 憑かれた人々 股旅スター 旅の馬鹿安 江戸の花和尚 旅の風来坊 中山七里 紅蝙蝠 股旅 崑プロ 日本ATG 萩原健一 小倉一郎 尾藤イサオ 長谷川伸 源太時雨 磯の源太 市川崑 忠臣蔵 股旅物時代劇 瞼の母 弥太郎笠 国定忠治 刺青奇偶 直八子供旅 沓掛時次郎 伊那の勘太郎 鯉名の銀平 関の弥太っぺ 一本刀土俵入 長谷川一夫 沢村国太郎 股旅物 やはり大トリ指名の片岡千恵蔵などが登場しています。

 

 

本記事の「主演三島由紀夫とスタープロダクション映画の成功者と傷つきながら模索した先人たち」進めていきましょう。

 

 

 

監督先行型ばかりの現日本映画の大危機を過去が教える

 


現代の映画界の製作は監督の方がスター俳優を日本では特に監督のほうが大きな存在である状況が続いていますが、戦前はどちらかといえば映画スターが主体でした。ざっくりいうと現代劇は監督のもの、時代劇は主演のスター俳優のものという独自な状況が日本映画の良さでもあったからです。

 

これが多様性で幅の広い映画製作を実現し、年間観客動員11億人を越すなどの戦後の最大の黄金期を招いた一つの要因となりました。過去から教わりますが、映画界は監督が牛耳る(ぎゅうじる)だけでは今以上に良くなりません。真の明るい新しい時代は訪れないのかもしれません。

 

 


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テレビが伝えない数十名のスタープロダクションの勝者 代表作とヒット作と

 

 

日本のスタープロダクション(主演俳優による映画製作会社)は1920年代中盤から1930年代後半にかけて隆盛を極め、阪東妻三郎が流れを形成に関与し、片岡千恵蔵が前衛路線を開拓、その幅を大きく広げ、娯楽路線全体の嵐寛寿郎らと競い合って事実上の頂点を極めました。

 

片岡千恵蔵の千恵プロ、阪東妻三郎阪妻プロ、嵐寛寿郎の寛プロの事実上のベスト3の結果を残し、受賞のみは千恵プロがダントツで1位だが、それぞれが簡単に数十の代表的映画作品を残し、ヒット作の本数もこのベスト3です。


それに次ぐ、事実上4位の市川右太衛門の右太プロ、この4選は嵐寛寿郎を除くと作本数が100作を越しています。本数的にもベスト4です。市川右太衛門の右太プロは本数が多いがベスト3と比べると代表作数が格段に落ちることからこの位置に収めるのが一般的、常識的です。

 

 

人気のみだと本数的のも千恵プロ、阪妻プロ、寛プロ、右太プロの4社ともが約90作(=4社でもっとも少ない寛プロ)を製作していることになるため、ベスト4だったといえるのでしょう。なぜなら本数の5位が勝見庸太郎の勝見プロの約25作だからです。

 

本数4位の約90作の寛プロと約25作の勝見プロでは65作という大差が存在していることも理由で、映画製作は多額の資金がかかる、人気の差が本数の大差に表れています。

 

 

それ以下の月形龍之介の月形プロ、入江たか子の入江プロ(入江ぷろだくしょん)、勝見庸太郎の勝見プロ、市川百々之助の百々プロ、などのスタープロダクションが上位といえるでしょう。本数のみだと勝見プロ、百々プロの方が月形プロ、入江プロを上回っていますが、現代への影響力、明確な代表作の月形プロ、女性初のスタープロダクションという面で入江プロの存在は大きなものです。

 

 

 

 

 

映画に未来のために映画愛子は映画の悲しい過去も伝えたい 傷つきながら自己模索した先人たち

 

 

 

勝者があれば残念だった人たちが悲しいことの存在してしまうものです。戦前の映画界を彩ろうとした数十名でスタープロダクションが存在、谷崎十郎、山口俊雄、片岡松燕、中根龍太郎、武井龍三、市川小文治、高田稔、山本礼三郎、沢村宗之助など、ほとんど結果は残せませんでしたが、多くの俳優たちが自分の活躍を求めて挑戦し続けました。

 

谷崎十郎、中根龍太郎、市川小文治、高田稔、山本礼三郎はある程度は日本映画に詳しい人ならご存知かと思います。市川小文治、山本礼三郎はトータルだと助演の名優です。山本礼三郎は戦前も千恵プロの上位助演俳優の一人などで活躍後、戦後の東宝の脇役で活躍しました。

 

映画製作者兼主演俳優では成功はかなわない人物がいても、映画スターとしてはある程度の成功を収めた人物やトータルの脇役の成功につなげた人物もいました。

 

 

 

 

 

 

破天荒作家の映画関与の日々

 

 

 

映画製作者(映画プロデューサー)そのものではありませんが、映画製作に関与していた某有名人物が存在しています。

 

 

からっ風野郎

からっ風野郎

 

 

有名作家の三島由紀夫が主演した1960年の大映映画の現代劇『からっ風野郎』、この映画は事実上の監督の増村保造と女優の若尾文子の名コンビの1本に数えることもでき、若尾文子は主演の三島由紀夫のあくまでヒロイン役で出演、主演ではないのでこれを主演コンビとしては数えることはできません。

 

三島由紀夫は作家として世の中的に認知されていますが、俳優や映画関係者としても一時的な関りを持ちました。三島の映画原作は30作近く、さらに音楽、美術の映画製作に少ないながらも関与し、この映画のように自身の出演作は6作を数えています。主演はこの『からっ風野郎』とATG(日本アートシアターギルド)の自身が監督でも関与したカルト方向の映画『憂国』の2本のみです。

映画でも破天荒なやりたいことをやる人物でもありました。

 

 

 

 

 

2人いた同姓同名の山口俊雄

 

 

 

実は1966年生まれの同姓同名の山口俊雄が存在しており、下記のこの本が刊行されたとき愛知県立大学文学部助教授となっています。山口俊雄(1897年生まれ)とは名前が同じだけで無関係です。

 

 

 

石川淳作品研究―「佳人」から「焼跡のイエス」まで

石川淳作品研究―「佳人」から「焼跡のイエス」まで

 

 

 

上記登場の山口俊雄(1897年生まれ)は映画人です。映画人といっても残念ながら映画ではほぼ活躍したといえません。なぜなら主演作も製作作もほぼ少数だからです。ではどうして彼が大量に資金を要する映画製作を実現できたのか、それは舞台俳優である程度の名声を経ていたからです。

 

一時的には自分の劇団を旗揚げしましたが、大手映画会社の牧野省三によるマキノプロダクションに招かれ、千恵蔵、嵐寛などの若手人気映画スターたちの1920年代後半の退社の騒動に便乗して製作に乗り出すチャンスを手に入れました。

 

チャンスを手に入れることはできましたが、千恵蔵(製作主演100作以上)、嵐寛(製作主演90作近く)などのように少ないこのチャンスを掴むことができず、山口俊雄(1897年生まれ)は1作のみの製作兼主演作だけしか作られていません。通産主演自体も3作のみが確認できるだけです。

 

現在以上に圧倒的に厳しい現実、たった一度だけのチャンスの現実、この現実が戦前の日本映画の凍てつくような厳しさの一つを現しているようで仕方ありません。

 

10度以上映画化された有名題材の『月形半平太(1928)』(山口俊雄プロダクション製作)は一定の評判を得ることができなかったということでしょう。その後、山口俊雄(1897年生まれ)は映画界を去り、舞台の助演、脇役俳優として活動しました。

 

山口俊雄(1897年生まれ)は終戦を迎える1945年の8月を待たずして、1945年の1月に亡くなりました。舞台で活躍できても映画では活躍できない、舞台と映画は別物だと彼はこの履歴という背中を見せて語っているようです。